棒に当た

ったら吉

『生まれた時からアルデンテ』 平野紗希子

数年前書店でアルバイトをしていた時に初めて見かけて、今に至るまで手に取ることのなかった本である。ずっと気になっていたのに、読むことがなかったのは、一重にモラトリアムを謳歌していた(今もしている)自分の若くして溢れる才能を周囲に認められ、ちやほやされている(ように思える)著者への勝手な羨望と僻みからである。

 

そういったねじ込みいった感情はさておいて、実際に読んでみると、本当に面白い。最初の『小学生の食生活/日記』なんて、本当に小学生が書いたのかと目を疑う。

その横にちょこんと乗っていた「みそしる」におどろいた。「おいおい、ここイタリアンじゃないの?」と思ってしまう程だった。

行きつけなのだろうイタリアンでの日記であるが、小学生ってこんなの書けるっけ。というより食べ歩きダイアリーというものを購入ししっかりと描き続けているだけでもすごい、目を剥く、ひっくり返る。日記にはそれでも♡の使い方や顔文字など小学生らしいところもたくさんあって、微笑ましく、筆者は天才なんだろうな〜と素直に納得してしまう。

 

読み進めていくと、『パンケーキよりはんぺんだ』や『素直な挨拶』など、「めっちゃわかる」とおもわず声にだしてしまう短文が多数。中でも、『文化経済資本の見せびらかし』や『共食孤食問題』、『ガストロノミーってなんですか?自然と文化の拮抗点ですか?』にはイイねボタンを100万回押したい。

「何を好み、どう食べるか」という問いに答えることはそのまま自分の経済資本や文化資本を他人にさらけ出すことと地続きで、それは時に譽れになり、ときに差別のきっかけともなる・・・。「あなたはカップ麺もお好きなの?幸せなことね」という言葉を最後に、またぎようもない線を、すっとひいたMSG嫌いの奥様のことを思い出す。 -『文化経済資本の見せびらかし』

 

『共食孤食問題』では人と食べる楽しさは、その食事を味わうということと引き換えに発生するものではないのか、とある。

たしかに人とご飯を食べると、相手のことが気になり、食事の味なんてあまりよくわからない。たこ焼きをソースで食べようが、ネギぽんで食べようが、その印象は一緒に食べている人の会話の印象でぼやけてしまう。会話ソースがけのたこやきになるのだ。

でも「美味しいね」は共有したいと思うし、実際食を共にするという行為は親交を深めるにあたってとても手っ取り早く、取り組みやすいものであることは否めない。

”味わう”ということと共食は両立しないのである、いまのところ。

 

食にまつわる本も多数取り上げられていてとても参考になった。やはり性格はまっすぐあるべき、食わず嫌いは悪である。

 

生まれた時からアルデンテ

生まれた時からアルデンテ