高松の旅 ③出発ランニング
出発当日、5時起き6時発、栄養補給用にバナナをもち7:30に野田駅着。さてそこから三宮まで5時間で走れるか…!とスタートした早々、あれ、めっちゃ強風じゃん今日…。
走り始めてすぐ大きな橋を渡るのだが、もう真正面からの力強い向かい風。正直にいって踏ん張るのさえ必死。無理だ、これ、と走り始めて5kmで思ったものの、せめて10kmは…!となんとか武庫川ぐらいまではのろのろと走破。この時点でもう身体はぼろぼろ。なにをやってるんだろうなぁと呆れかえって撮った写真。走った結果はこの通り。
さてそれでも、ある程度のところまで来れたので、出来る限りのところまでは行きたい!と目標を変え、芦屋まで歩くことを決意。そこで行きたかったパン屋さんによるんだ…!とうどんなんだかパンなんだかよく分からなくなってくる。そしてそれから歩く、歩く。もう足首激痛だし、脛は折れそうである。それでも歩く。歩く理由はひとつ、"ここまで来てしまったし"。
う〜んいけない思考回路な気がする。
永遠かと思われた地獄のウォーキング、でも何事にも終わりはあるので、なんとかついにパン屋さんに…!
2個ほど買って芦屋駅に。
ここから芦屋まではまた10分くらい歩くんだけど、それすらも辛いという地獄。この時点で後悔20%。帰る頃には130%くらいになっているんだけどね。
高松の旅 ②地獄までの準備
13:30の便に乗ると決めたところ、神戸のフェリー乗り場である三宮までは1時間ぐらいで着いてしまうので、朝の時間が暇である。そしてあちらについたら、そりゃもううどん、食べまくりたいよね。なのでお腹はペコペコにしていきたい。食べた分チャラになるくらいまで運動したい。という思考回路につき弾き出した案が
三宮まで走ろう!
というもの。地下鉄メトロは定期の関係上、お金がかからない。梅田から大阪までは320円であるがお金がかかるので、まぁ運動もできてお金も浮くなら一石二鳥じゃ?と思った所存である。
ちなみに1番三宮に近そうだった地下鉄野田阪神駅から三宮まで30km。ランニングではまだ10kmぐらいしか走ったことはない。なぜ行けると思ったのか、今考えてもアホだなぁとしか思えない。
当初着替えを1着だけにして、ランニングリュックに詰めようとしていたのだけどやっぱり化粧道具などもあり入らない。Yahooショッピング(今ならPayPay返ってくるからね!)でサロモンの20lバックなどを散々見ていたのだけど出発日までに用意できそうにない。
そして目をつけたのが高校生の時に使っていたノースフェイスのリュックである。紐を調節してちょっと部屋でゆさゆさしてみると、案外いけそうである。荷物も入るし、リュックは決定。あぁ、これが地獄の始まりである。本当にアホであった。悪いこと言わないから、電車で行きなよ…。
高松の旅 ①計画
うどんが食べたい!と思い立ち2週間ほど、ようやく香川に向けて出発。すぐに向かえなかったのは、バイトもあり学校もありで連休がなかなか取りずらかったことと、あと何より、
香川以外と遠いぞ問題
いや、遠いというと語弊があるけれど、なにせ大阪からのアクセスが悪すぎる。夜行バスだと3,4時間ほどで着くので朝に出て昼着くか、夜に出て深夜に着くか、なんとも微妙である。
メジャーである神戸からのフェリーも出発、到着の時間がどれも動きづらい時間で、朝のフェリーで昼に着くのが1番良いのかもしれないが神戸に6:00は始発でも間に合わない。
色々考えた結果、U25で費用が1番抑えられるフェリーを選択。時間は朝は難しいので、13:30発、夜についてうどん巡りは次の日から、夜居酒屋で酒を飲む計画に。最初は日帰りで考えていたのに、なんだかずるずると1泊することになってしまった。ちなみに泊まるつもりはもともとなかったので、ホテルは確保せず、やってみたかったカラオケ泊にもこれを機に挑戦することに。
さて、最初の考えから出発するまでにプランがグネってしまったのだが、実際出発してみるとなかなかにカーブの激しい旅になってしまうことになりました。
『貧乏サヴァラン』と黒糖パン
かの森鴎外の娘である森茉莉の食エッセイ集。そう筋にも書いてあるし、つれづれと日々を緩やかに描いているのかと思えば冒頭一行目、
"マリアは貧乏な、ブリア・サヴァランである"
と普通えもしれぬマリアなる人物が。ブリア・サヴァランは" どんなものを食べているかいってみたまえ。"の人であるから食に関連している一文だとは感じられるがはてマリアとはだれ・・・。
表紙をよくみるとタイトルの下、森茉莉 との著者名表記の下に "早川暢子編”との記載がある。最後の”編者あとがき”にもあるがこれは文庫オリジナルで、『森茉莉全集』全八巻から食に関する記述を再録したものだそう。
はなからエッセイテンションで読み始めた私はこの表題になっている『貧乏サヴァラン』で大きくつまずいてしまい、7行目くらいで読むのを一旦止めてしまったのだけれど、ぼけーっと読んでいると『ほんものの贅沢』という章にあたり、
だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。
要するに、不格好の蛍光灯の突っ立った庭に貧乏な心持で腰かけている少女より、安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女の方が、本当の贅沢だということである。
という文を読みこしたとき、森茉莉は一気に近しくなった。辻静雄の著作を読みあさってる中、美味しさというのは結局心の持ち方次第で、なににもまして自分が満足であることに尽きると、痛感する。
その後も彼女は
"卵というものの形がいい。≪平和≫という感じがする。" "卵の味には明るさがあり、幸福が含まれている。"と紡ぎ、
"料理にいれるものというものはそんなに規則的に計って入れるものではない。長いこと遣っていて自然に習得するものだ。"と豪語する。
彼女のいう『貧乏贅沢』というものの軸をしっかりと感じられ、一気にその価値観に魅了された。
この一冊を読んでいた時、あまりにも家の中にいるのが息苦しく、適当に家の近くの川の土手をずーーーっと県外まで自転車をこぎ続けた。朝から出発して、お昼ように冷凍してあった給食で配布されるようなふくろ入り黒糖パンに持っていき、少し疲れたところで食べたのだけれど、冷たい風が吹く中、ほんのりと甘い、10枚切りで成分表示が乗った黒糖パンは、突き抜けるような晴天の中、いままで食べてきたパンの中で一番美味しかったかもしれない。
その他森茉莉の純粋さ、心に響くところの多い本だった。
晩餐会で、自分のものと勝手に心内で決めていた刺身を幼児に取られ激怒したこととか、 父森鴎外のつくる少し奇妙な伯林料理だとか、興味深い話も多くある。読み終えた後、森茉莉の著書を調べ始めたのは言うまでもない。
『ワインに染まる〜パリから始まる美酒の旅〜』 戸塚真弓
戸塚真弓さんの著書を片っ端から読んでみたくなって、調べていたところ、『ワイン』の文字に吸い込まれるようにこの本を次に読む本に選んだ。発刊が2017年とだいぶ新しかったのも理由である。
どのようなワインの世界が待っているのか、うきうきしながら読み進めた。が、いかんせんこちらの知識が無さすぎた。この本の中には彼女のワインへの情熱が溢れんばかりに、それこそ大波になって読者に襲いかかっている。最近興味を持ち始め、やっとソーベネ・カルヴィニヨンの味を覚え始めた小娘の乗るでき合わせのボートなど、沈没を免れなかったのである。以前の『パリからのおいしい話』と比べて彼女も歳を重ねたからなのだろうか、もう読者のことよりワインへの愛の方が何倍も強く、右も左もない、といった感じ。また知識を付ければ、その情熱の波にも乗れるようになるのだろうか。そのようになれるのは、一体何年後になるのだろう。
今後の勉強のために自分用のメモ。
- 『オデッユセイア』の「葡萄色の海」の表現
- パリのポルト・ド・ヴェルサイユが主宰するフランス農業生産品コンクールは信頼ができる
- ボルドーの赤ワインで一級に格付けされているのが オー・ブリオン、ラフィット・ロチルド、ラトゥール、マルゴー、ムートン・ロチルド
- ボージョレ・クラシックはブルイィ、シェナ、コート・ド・ブルイィ、シルーブル、フルーリー、ジュリエナ、モルゴン、ムーラン・ナヴァン、レニエ、サン・タームルの10種
- ペソクサ(フランス食品振興会)
- ワイン美術館
- 『クロ』は『囲い』の意。
- オスピスのワイン
- グルジアのワイン、その食文化
- 「いいワインのように味わい深く熟成したい。おいしくなりたい」
- ロマネ・サン・ヴィヴァン
- ソーテルヌ
- アルコール依存症はワイン産地では少ない
- シャンボール・ミュニジー村の生産するワイン、ミュニジー
- 開高健『ロマネ・コンティ・一九三五年』
- イサク・ディネーセン『ピサへの道』の「老男爵の思い出」、『バベットの晩餐会』
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『生まれた時からアルデンテ』 平野紗希子
数年前書店でアルバイトをしていた時に初めて見かけて、今に至るまで手に取ることのなかった本である。ずっと気になっていたのに、読むことがなかったのは、一重にモラトリアムを謳歌していた(今もしている)自分の若くして溢れる才能を周囲に認められ、ちやほやされている(ように思える)著者への勝手な羨望と僻みからである。
そういったねじ込みいった感情はさておいて、実際に読んでみると、本当に面白い。最初の『小学生の食生活/日記』なんて、本当に小学生が書いたのかと目を疑う。
その横にちょこんと乗っていた「みそしる」におどろいた。「おいおい、ここイタリアンじゃないの?」と思ってしまう程だった。
行きつけなのだろうイタリアンでの日記であるが、小学生ってこんなの書けるっけ。というより食べ歩きダイアリーというものを購入ししっかりと描き続けているだけでもすごい、目を剥く、ひっくり返る。日記にはそれでも♡の使い方や顔文字など小学生らしいところもたくさんあって、微笑ましく、筆者は天才なんだろうな〜と素直に納得してしまう。
読み進めていくと、『パンケーキよりはんぺんだ』や『素直な挨拶』など、「めっちゃわかる」とおもわず声にだしてしまう短文が多数。中でも、『文化経済資本の見せびらかし』や『共食孤食問題』、『ガストロノミーってなんですか?自然と文化の拮抗点ですか?』にはイイねボタンを100万回押したい。
「何を好み、どう食べるか」という問いに答えることはそのまま自分の経済資本や文化資本を他人にさらけ出すことと地続きで、それは時に譽れになり、ときに差別のきっかけともなる・・・。「あなたはカップ麺もお好きなの?幸せなことね」という言葉を最後に、またぎようもない線を、すっとひいたMSG嫌いの奥様のことを思い出す。 -『文化経済資本の見せびらかし』
『共食孤食問題』では人と食べる楽しさは、その食事を味わうということと引き換えに発生するものではないのか、とある。
たしかに人とご飯を食べると、相手のことが気になり、食事の味なんてあまりよくわからない。たこ焼きをソースで食べようが、ネギぽんで食べようが、その印象は一緒に食べている人の会話の印象でぼやけてしまう。会話ソースがけのたこやきになるのだ。
でも「美味しいね」は共有したいと思うし、実際食を共にするという行為は親交を深めるにあたってとても手っ取り早く、取り組みやすいものであることは否めない。
”味わう”ということと共食は両立しないのである、いまのところ。
食にまつわる本も多数取り上げられていてとても参考になった。やはり性格はまっすぐあるべき、食わず嫌いは悪である。
抱きしめ鯛 肥後橋
テレビでも再三取り上げられ、ラーメン雑誌ではページ両面を埋め尽くし、名だたる(?)著名人が訪れ、食べログでは赤い星が輝いている。加えて一度食べにいった家族が「美味いうまい」と言いつづけるものなので、必然的に私の中の行きたい食べたいボルテージはマックスになるのはまあもう書く必要もない。
日曜日が定休日だということで、両親にご馳走になることしか考えていない私は木曜日平日、開店直後の憧れの『抱きしめ鯛』へ。
てっきり並ぶものかと思っていたのが店内にはカウンターに一人先客がおられただけでであった。券売機で看板商品である『鯛担々麺』の辛さ1を。辛さ0も選べるらしく、以前訪れた両親はそちらをいただいたらしい。私もはじめてだしそっちにしようかな、と思ったのだけど、券売機にわかりやすい記載がなく、初めてさんオススメ、とあったので、この辛さに。そして2回の味変が体験出来るという『鯛めし』も注文。
セルフで水を用意し、使い捨ておしぼりで手を拭いているとおしゃれにドレスアップした鯛担麺が到着。めんま(大好き)が大きく、鶏ハム、薄切りチャーシューが大きめカットで添えられている。麺はコシがある中太縮れ麺。肝心のお味だが、スープはしっかりとしたこくがあり、辛みは1でも、辛いのが苦手なら苦戦しそうなほどしっかりと効いている。 上の鯛そぼろ?はしっかりと煎られていて、スープとからめると香ばしさが加わってより美味しい。担々麺らしく濃いスープではあるが、鯛だしだからなのか、後がさっぱりとしている。
総合的に文句なく美味しい。美味しいのだが・・・・。
私は普段ラーメンはまったくと言っていいほど口にしない。この日も1年に2度あるかどうかの貴重なラーメンタイムであった。だからなのか、美味しいのは間違いないのだけれども、特別、何も思うところがなかったのである。鯛の風味を感じようにも、食べ慣れないせいでこれが鯛だしなのかなんなのかよくわからない。というより辛い。辛さは大丈夫なはずなのに・・・。あとで両親に確認すると(両親も今回は辛さ1)辛さ0の方が鯛の味がしっかりと感じられたそうである。しかしそれなら担々麺である意味があるのかないのか。ラーメン盲でほんとうにすみません。
絶賛されていた鯛めしもまあ、鯛めしだね〜といった感じ、1度目の味変でスープをかけリゾット風、そこからテーブルに用意された鯛だしをかけてお茶漬け風に2度目味変、という仕組みなのだが、これも予想の域を超えないといいますか・・・。でもポットに入った鯛だしはしっかりと鯛のかおりがあり、シンプルにこれに粗塩でも足して飲みたかった。
ひどい書き方だが、感動したのが鶏ハムとチャーシューである。(鶏ハムではなく鶏のコンフィらしい)鶏ハムはむっちりと柔らかく、パサつきなど破片もみせずプリッとジューシー。低音でじっくり仕上げられたチャーシューの、こちらに身を預け切ったあまい油のとろけ方、柔らかさが、かけられた甘酸っぱい(おそらく)バルサミコソースと合わさるともう至高の逸品である。これだけでお店いけると思う。
散々褒められ尽くして味のハードルを上げられたうえでの実食だから、致し方ないところはあるけれども、2度目、あるかな・・・。お店の問題ではなく、私がもっとラーメンを勉強するべきだということに尽きる体験になりました、はい。